迷ってしまった。
鬱蒼としげった山の中だ。
連休を利用して東北の山を縦走していたところ、目の前から道がなくなってしまった。
「困ったな」
独り言が漏れる。
笹草が地面のすべてを覆っている。引き返そうと思ったところで後ろをふりかえってみれば同じく笹草だらけで、道の面影だってどこにもなかった。
「獣道だったか」
知らない間に登山道からはずれてしまったらしい。完全に道を見失っていた。
「困ったな」
さらに悪いことに方位磁石すら使い物にならなかった。おそらく周囲に磁気を帯びた鉱石が散在しているのだろう。これでは自分の現在位置を確認することもできない。もちろんスマフォだって繋がらない。太陽の位置からなんとか方角でも分からないかと空を見上げても、鬱蒼としげった樹木たちが太陽の姿を遮ってしまっていた。
まるで暗闇だ。
不穏な空気に身がすくむ。
しかも悪いことは重なるものだった。
「間違いなく、捻挫してるな」
右足首に感じる違和感。
どうやらさきほどひねった時に捻挫をしてしまったらしい。歩けることは歩ける。けれどもズキズキとした痛みがひどくなっていた。
「困ったことになったぞ」
もう15時だ。
深い山の中ではそろそろ活動をやめて寝床を探す時間帯だった。幸いなことにテントなどの装備はある。どこか野営できる場所を探す必要があった。
「とにかく進むしかないか」
私は歩き出した。
笹草が足に絡みついてくるのを煩わしく感じながら必死に歩を進める。夏の熱気で汗が吹き出てくる。右足はどんどん痛くなる。私はなかば足を引きずるようにして、笹草や木々をかきわけるように進んでいった。
どれくらい悪戦苦闘していただろう。
目の前。
突然それは現れた。
*
「な、なんだこれは」
暗い森の中にぽっかりと空間がひらけていた。
不自然に樹木が消えている。その場所に足を踏み入れた瞬間、なぜか動物や虫の気配が消えていた。シーンと静まりかえって、肌に伝わってくる空気も冷たいものに変わった。
目の前には廃墟があった。
木造でつくられた何かの建築物のあとだ。完全に朽ち果てている。建物だった痕跡がかろうじて分かるだけ。その痕跡の一つが目に飛び込んでくる。それには見覚えがあった。
「と、鳥居か?」
朽ち果てていたが、それは確かに鳥居だった。ただの樹木に見えたが、よく見ると鳥居だ。ということは、ここは・・・・・・、
「神社か」
ぞくっと背筋が凍る。
理解できない恐怖が全身を包みこむ。
こんな山の中に、なぜ神社が存在しなければならないのだ。私が縦走している山々は間違っても人里があるような場所ではない。電気だって通っていないし、冬になれば雪で覆われ登山客さえ進入が許されない場所になる。そんな深い山の中に、なぜ神社が存在しなければならないのか。
「・・・・・・白蛇神社」
鳥居には、かすれた文字でそう書かれていた。
ということは本当に神社なのだ。
私は訳が分からなくなった。
理解不能な光景に体が震える。
「と、とりあえずお参りするか」
このまま素通りしてはダメな気がした。
朽ち果てた鳥居をくぐって廃墟に近づく。
もはや拝殿も本殿も見る影もないほど崩れていた。私はその廃墟にむかって手をあわせ、目をつぶり、祈る。
―――どうか無事に下山できますように。
―――足の痛みが引きますように。
―――あと、できれば結婚したいです。
目をあける。
私の横に女が立っていた。
「ひ」
恐怖で体が震える。
見間違いではない。
女だ。
老婆かと思ったがそれも違った。
若い女だ。
少なくとも私よりは若い。それなのに肌はかさかさに荒れていて、その長い黒髪も色素が薄くなって汚れて見えた。服装だって今時見かけない和装だ。背がかなり高いことが女の異常性を高めているように思えた。まるでホラー映画の中に入り込んでしまった感覚になる。
年若い山姥。
妖怪か?
呪われてしまったのか。
私が何をしたというのだ。
心臓がバクバク鳴る。恐怖で背筋が凍り、今すぐここから逃げろと本能が全力で命令してくる。それでも一歩も動けなかった。女は変わらずに私の横で立っていた。
「あ、あの」
女の声だ。
やはり若い。声には艶が残っている気がした。
「あの、大丈夫ですか?」
それは心の隙間にすんなりと入ってくるような声だった。
それを聞くと、なぜか恐怖が体から抜けていくのを感じた。
(現実の……女だ)
恐怖がなくなってようやく理解する。
目の前には女が立っているのだ。人間の女だ。間違っても妖怪とか幽霊ではない。
「足、ケガされてるんですか?」
女が心配そうに声をかけてきた。
その瞳は不安げに潤んでいる。
艶がある。
憂いを帯びた瞳。
背が高い絶世の美女だ。
それなのに、なぜか枯れ果てた印象がぬぐえなかった。生気というものを何も感じないのだ。それがなぜか、とても印象に残った。
「だ、大丈夫です。軽く捻挫してしまっただけで」
なんとか声を振り絞る。
女は「大変」と、まるで自分が怪我をしたみたいに顔をゆがめた。
「はやく手当をしたほうがいいです」
「そ、そうなんですが、いかんせん、登山道からはずれてしまって、はやく野営地を探さないとならんのです」
しどろもどろになりながら言う。
女はそんな私のことを黙って見つめてくる。
何かを迷っている。
そんな表情に見えた。
女が言った。
「よろしければ、うちに来ませんか?」
「え?」
「わたしの家でよければ泊まっていってください。祖母と二人暮らしですので遠慮は無用です」
*
女は、白崎巳雪(しらさき みゆき)と名乗った。
ご厚意に甘えて彼女についていくと、案内されたのは古びた和風建築物だった。一昔前の田舎の家だ。土間があって、薪で煮炊きをする炊事場があった。
「ふう」
出迎えてくれた巳雪さんの祖母に案内された部屋で一人くつろぐ。どうやら客間らしく、茶色く変色していたが畳だった。その上であぐらで座り、靴下を脱ぐ。
「腫れてきたな」
捻挫した右足首は明らかに腫れていた。
何もしていないのにズキズキと痛む。
経験からするとかなりまずかった。明日になったらさらに悪化してしまうかもしれない。
「どうしたものか」
一人で山歩きをしている時のように、独り言が口から出てくる。
山の中を歩いていたら神社があって、そこで拝んだら女が現れ家まで案内してくれた。まるで日本昔話に出てくる物語のようだ。けれどもこれは現実で、巳雪さんもおばあさんも現実に存在するのだ。そう思ってもなぜか現実感というものがなかった。
「失礼します」
障子がひらかれて、巳雪さんが現れる。
彼女は水の入った大きなタライを持って部屋に入ってきた。
「おくつろぎ中、申し訳ありません。今、大丈夫でしょうか?」
「は、はい」
「怪我の手当をしたほうがいいと思いまして、冷たい水と布をもってきました」
どうやら気を使わせてしまったようだ。
けれどその厚意は本当にありがたかった。
「すみません。正直助かります」
私の言葉に巳雪さんがにっこりと笑った。
人の心を安心させるような控えめな笑顔だ。彼女は私の近くで正座になると、上目遣いで私のことを見つめてきた。
「う」
その視線に思わず呻いてしまう。女性に免疫がないせいでドキドキと心臓が脈打つ。高身長の大きな体が隣にある。カサカサに乾いた肌と、手入れもしていないであろうボサボサの髪でなければ、絶世の美女に違いなかった。
「それでは、足を失礼しますね」
巳雪さんが笑って言う。
私は慌てて、
「あ、自分で」
「大丈夫ですよ。わたしに任せてください」
「で、でも」
「山歩きで怪我をした人の手当には慣れているんです。遠慮しないでください」
その優しげな声を聞くとそれ以上断れなかった。
私は「すみません」と謝りながら、彼女に腫れている右足を差し出した。
「はじめますね」
彼女の手が私の右足に触れる。
その瞬間、私の体がびくんと跳ねた。
(な、なんだ?)
恐怖で体が震えたのではない。
これは快感だ。彼女にさわられた足から電流が走り、それが股間に直結して気持ちよさが爆発した。
「ん、ああッ」
声が漏れてしまう。
彼女の手の感触で悶絶する。やわらかい。とても心地がよくて、頭が真っ白になる。その理解不能な快感に若干の恐怖を、
「大丈夫ですよ」
巳雪さんがにっこりと笑った。
「安心して、身をゆだねてください」
「は、はひ」
「ふふっ、すぐに終わりますから」
そう言うと彼女は私の右足を水の入ったタライにひたした。冷たい水の感触が患部を冷やしていくのが分かる。巳雪さんは丁寧に、まるで宝物を扱うように私の右足をいたわってくれた。水の中で患部を優しく撫でられる。その感触にまたしても「あひん」と声が漏れるのだが、巳雪さんは優しく笑うだけで、こちらをとがめる様子は何もなかった。
「足、鍛えているんですね」
「あへ?」
「筋肉、とっても逞しいです」
私の右足に優しく水をかけながら巳雪さんが問いかけてくる。ちゃぷちゃぷという水の音。心の隙間に入り込んでくるような優しげな声が響く。
「なにかスポーツをされているんですか?」
「い、いえ、私はただの会社員で、普段は運動もできないんですが、休みの日には山のぼりなんかをしています」
「そうなんですか・・・・・・だからこそ、ここまでたどり着けたんでしょうね」
巳雪さんが私の右足首をタライから取り出す。そしてタオルで丁寧にふき始めた。まさに至れり尽くせり。彼女の手の感触だけで私の体がびくんと震え、夢心地になってしまった。
「終わりました」
気がつくと私の右足首には清潔な布が巻かれ固定されていた。可動域が制限されてだいぶ痛みも軽減されていることが分かる。
「あ、ありがとうございます。すごい。完璧なテーピングですね」
心底感嘆する。
「本当に見事です。ありがとうございます。巳雪さんのおかげでだいぶ楽になりましたよ」
正直な気持ちだ。
それを口にしただけなのに、なぜか巳雪さんがモジモジし始めた。
「そ、そんな・・・・・・わたしなんて、ぜんぜんです。こんなの、ぜんぜん」
黙っていると怖そうに見えるほど理性的な彼女が、顔を赤らめて恥ずかしがっている姿はとてもかわいらしく見えた。何をそんなに恥ずかしがっているのか分からず声をかけようとすると、巳雪さんが勢いよく立ち上がった。
「そ、それではわたしはこれで失礼します」
「え?」
「きょ、今日はお風呂はやめておいたほうがいいと思います。しょ、食事の準備をしますので、楽になさってください」
ばっと頭を下げて退室してしまう。
巳雪さんの匂いを部屋中に感じながら、私は一人、ぽかんと取り残された。
*
どうやら巳雪さんは人に褒められることに慣れていないらしい。
夕食の時にも、巳雪さんの準備してくれた食事があまりにもおいしかったので率直な感想を言うと、彼女は顔を真っ赤にして恥ずかしがっていた。
「なんだか、かわいい人だな」
客間でいつものように独り言が漏れる。
食事も終わり、夜も深まった時間帯だ。
家には電気が通っていないので、あんどんに設置されたロウソクの火が、あたたかい明るさを客間に提供してくれていた。用意してくれた布団に寝転がったまま、ぼんやりと天井を見上げる。
「不思議な人だ」
脳裏に彼女の姿が浮かびあがってくる。
「優しい人なんだろうな」
それが直感として分かった。
少し褒めただけで恥ずかしがる様子もかわいらしかった。
「寝るか」
体力は限界をむかえている。
私はロウソクの火を消した。
人工的な明るさは消え、部屋の中に月明かりが差し込んでくるのが見えた。今日は満月だったのだ。暗闇が深いと月の明かりもまぶしく感じられる。私は柔らかそうな満月の存在を感じながら、ゆっくりと眠りについた。
つづく