あれは忘れもしない9月1日のことだった。
2学期が始まり、例にならって席替えが行われた。
念願が叶った。
僕は真由美ちゃんの隣の席になった。しかも、真由美ちゃんのまわりは僕以外、全員女子の席だった。
このときほど、僕は、神様に感謝したことはなかった。
それまでの悲惨な学校生活が一変して、暗く厚い曇天が晴天に変わった気持ちがした。
「ねえ、腕相撲しようよ」
その言葉を聞いたとき、天にものぼる気持ちだった。
ドクンと心臓が脈打つ。
声のしたほうを見ると、真由美ちゃんが僕のことをニヤニヤしながら笑っていた。
「ね、いいでしょ」
可愛らしく首をかしげながら真由美ちゃんが言った。
僕は、はやる気持ちをおさえて、平静を装いながら頷いた。すると、真由美ちゃんは嬉しそうにニンマリと笑って、僕の机の前まできた。
その体の迫力。
僕とは比べものにならないほど高い身長と、体の厚み。
いつものホットパンツから伸びるムチムチの逞しい太ももはまぶしいほどだった。褐色の肌が、いかにもアマゾネスといった感じがして、活力に満ち満ちている。
真由美ちゃんは、そのまま数秒、仁王立ちのままで椅子に座る僕のことを見下ろしていた。僕は、そんな真由美ちゃんのことを見上げたまま、彼女の魅力に目を離せなくなってしまった。
いつまでもいつまでも、こうして見下ろされていたい、そんな気持ちでいた。
「それじゃ、やろっか」
真由美ちゃんが僕の前の席の女の子に頼んで、椅子を借り、そこに座った。
座ったのにもかかわらず、真由美ちゃんの迫力は満点だった。
自信満々で、僕の机に肩肘をつき、腕相撲の姿勢になる真由美ちゃん。僕の目の前に、真由美ちゃんのニヤニヤした笑顔がある。
幸せすぎて死ぬかと思った。
死んでもられないので、僕は真由美ちゃんの手をおずおずと握った。その柔らかさと力強さにビクンと体が震えてしまう。
そんな僕の反応を見て、真由美ちゃんが強気にぐいぐいと僕の手を握りしめてきた。
まるで、力の差を思い知らせるように。おまえでは私に勝てないのだということを分からせるように。
真由美ちゃんの強い力で握られた僕の手は、それだけでヒリヒリと痛み出し、僕の心臓はおかしなほどに脈打った。
「ふふっ、細い腕だね〜」
真由美ちゃんが言った。
彼女は真正面から、いつもの獲物を前にした猫みたいな笑顔を浮かべている。
「ほら、私の腕とぜんぜん違うじゃん。ひょっとして、私の腕の半分くらいしかないんじゃない?」
言って、真由美ちゃんは机に肘をつけていないほうの腕を、ぐいっと曲げて、力こぶをつくってきた。
ぼっこりと盛り上がったその筋肉と、柔らかそうな皮下脂肪の織りなす逞しさと美しさ。僕は真由美ちゃんのことをボウっと見つめることしかできなくなっていた。
「それじゃあ、レディーゴー」
かけ声。
僕は全力で力をこめた。
こんなにも全力でなにかをするのは人生初めてではないかってほどに全ての力をこめた。
己のあらん限りを振り絞る。
息をとめて、こめかみの血管がぷつぷつ切れるほどに顔を真っ赤にして、真由美ちゃんの腕を倒そうとする。
しかし、
「ねえねえ、ちゃんと力こめなよ」
真由美ちゃんの言葉にハっとして顔をあげる。
そこには、キョトンとして、僕のことを見つめてくる真由美ちゃんの姿があった。
「ちゃんと全力でやってくれないと、つまらないじゃん」
いつものニヤニヤ笑顔すらない。
真顔で、こちらの非を責める真由美ちゃん。
断っておくが、僕は全力だ。
全身全霊をかけて、今も、真由美ちゃんの腕を机に倒そうとふんばっている。それなのに、真由美ちゃんはまったくの余裕で、こちらを見下ろしてくるばかり。
相手にもなっていない。
大人と子供の戦いどころでもない。
真由美ちゃんにとって、僕の全力の力なんて、力がこめられていないと思うほど弱々しいものに過ぎないのだった。僕は、あまりの力の差に、呆然としてしまった。
「あ、ひょっとして、全力だしてたの?」
真由美ちゃんが言う。
それと共に、彼女はニンマリと笑うのだった。
「まさかね〜、そんなわけないよね〜」
真由美ちゃんは分かっている。
僕が全力を出していることを。
それが分かっていながら、真由美ちゃんは、ニヤニヤ笑いながら、僕のことをいたぶるのだった。
「ほらほら、はやく本気だしなよ〜。でないと負けちゃうよ?」
「く、うううううう」
一生懸命、力をこめる。
大きな真由美ちゃんの手を必死に握りしめ、体ごと腕をまきこむように、全体重でもって真由美ちゃんの腕を倒そうとする。
ビクともしなかった。
まったく、微動だにしなかったのだ。
まるで、大きな壁でも相手にしているかのように、真由美ちゃんの腕は不変だった。1ミリだって動いていない。
「あははっ、よわ〜い」
ズドウウンン!
「う、あああああッ」
きまぐれみたいに真由美ちゃんが腕に力をこめた。
その途端、僕の腕は、体ごと倒され、机に叩きつけられてしまう。
その圧倒的なまでの力に、僕は、ほかの男子と同様、真由美ちゃんとの格の違いをまざまざと思い知らされ、恐怖を感じた。
「ふふっ、一瞬だったね」
真由美ちゃんが僕の手をぐりぐりと机に押さえこみながら言う。
反射的に僕は下をむいてしまっていた。
こんな変態性癖の自分でも、女の子に負けたことにショックを感じているようだった。
「女の子に負けた感想はどうですか〜? くやしい? 泣いちゃいそう?」
その声は本当に楽しそうだった。
僕は思わず顔をあげて真正面をみた。
やはり、ニヤニヤ笑いながら僕のことを見下ろしてくる真由美ちゃんがいた。その表情はとても生き生きとしていて、とてつもなく可愛かった。
「ふふっ、もっと力つけないとダメだよ」
最後に、真由美ちゃんは僕の手をひときわ強く握りつぶし、机に押さえつけると、さっそうと自分の席に戻っていった。
そして、その長い脚を優雅に組んで、僕のことなんて眼中にないといわんばかりに隣の女の子と会話を始めた。
僕は、隣から、そんな彼女のことをチラチラ盗み見ながら、自分の押さえきれない心臓の鼓動を感じていた。
*
それからというもの、僕にとっては天国の時間が続いた。
真由美ちゃんは、最低でも、1日1回、僕と腕相撲をしてくれた。
彼女からの腕相撲を申し込まれるために、真由美ちゃんが席に座っているときには、常に僕も席に座るようにしていた。
たいして興味もない本をその文字だけを目で辿るだけの作業をしながら、自分の意識の全ては隣の席の真由美ちゃんに向けられる。
真由美ちゃんから話しかけられるのをひたすら待ち続ける毎日。
彼女の隣で、その健康的な体を間近で感じることができるだけで、僕はとてつもなく幸福だった。
「ねえ、やろっか♪」
はずむような声。
真由美ちゃんのその言葉を聞くたびに、僕は有頂天になり、幸福な気分になった。
僕はおどおどしながら真由美ちゃんの机に移動し、机に肘をつく。
こちらが彼女の手を握ろうとする前に、真由美ちゃんは僕の小さな手をがっちりと握りしめ、ぎゅうぎゅうと力をこめるのだった。
逃がしはしない。
まるでそう言われているようで、真由美ちゃんの顔を見上げると嗜虐的な満面の笑みを浮かべてこちらを見下ろしてくる彼女がいて、それだけで僕はビクンと快感に全身が震えた。
すぐに僕の手が机についてしまう日もあれば、じっくりといたぶるように力の差を見せつけてくる日もあった。
それらの行為を真由美ちゃんは本当に楽しそうに行うのだった。
とても魅力的で、僕は彼女のことがますます好きになっていった。
*
しかし、そんな毎日にも終わりがくる。
席替えの日は容赦なく訪れ、突然のことながら、2回連続で真由美ちゃんの席の近くなんていう奇跡は起こらなかった。
僕と真由美ちゃんの接点はまたしてもなくなり、自分ではない男子が真由美ちゃんに負けている様子を遠目でうかがう毎日。
その男子が自分である妄想で日々をやりすごしながら、さらに日々は過ぎていった。
冬の日のことだ。
愕然とした。
気づいてしまったのだ。
席が遠くなるくらい、別に大したことではない。
こうして真由美ちゃんの姿を見ることができるし、それに、彼女が腕相撲で男子を負かす様子だって見ることができる。
問題は、あと数ヶ月もすれば、僕たちは小学校を卒業して、別々の中学に進むということだった。
学校が変われば、真由美ちゃんの姿を見ることなんてできなくなるだろう。
当然、腕相撲をやっている姿なんて見ることができるわけがない。
というか、卒業後は一生、真由美ちゃんと会えないかもしれない。
真由美ちゃんの連絡先だって知らない。
彼女は陸上関係が強い私立の中学校に入学することが決まっていたし、僕はそのまま学区内の中学に入学するのだろうと思う。
そうなれば、もう接点はない。
このまま一生、真由美ちゃんには会えない。
僕は焦燥にかられながらも、どうすることもできないで、悶々と日々の生活を送るしかなかった。
*
卒業式を間近に控えた冬のことだった。
もうすでに皆、進学する中学校も決まり、あとは卒業をまつだけだった。
とはいっても、一部の人間をのぞいては、全員が学区内の中学校に入学するので、とくに新鮮味はなかった。
その一部の人間に、真由美ちゃんが入っていなければ、僕はまったくの感慨もなく、このクソみたいな小学校を卒業していったことだろう。
真由美ちゃんと会えなくなる。
僕はそのことを考えるとどうしようもなくなってしまっていた。
だからだろう。
普段の自分ではそんなことをすることは絶対にできないと思うこと、そんなことができたのは。
あれは放課後の教室だった。
悶々とした思いをかられていた僕は、一人、誰もいなくなった教室の中で頭を抱えていた。
学校の外に出れば真由美ちゃんとの接点なんてないものだったから、少しでも真由美ちゃんの存在を感じたくて、学校の教室に残っていたのだと思う。
そんな教室の中に真由美ちゃんが入ってきた。
運動をしてきた後なのだろう、その体からは湯気のような熱量が感じられた。
陸上部の練習着姿で、その逞しくも美しい、長い脚を惜しげもなく外気にさらしていた。
その二本の脚で立つ彼女の姿に、僕は天使が舞い降りたのだと思った。
「あれ、残ってたの?」
真由美ちゃんが言った。
僕はまごまごして返す言葉がなかった。
そんな挙動不審な男に真由美ちゃんはそれ以上注意を払わず、自分の机にむかった。
どうやら真由美ちゃんは忘れ物をとりにきたらしい。すぐにそれを見つけ、彼女が教室から出て行こうとした。
ガタンと、勢いよく席を立つ音が聞こえた。
「あ、あの、広末さん!」
叫んでいた。
叫んでいるのは僕だった。
僕は僕じゃないように感じる自分の口からとんでもないお願いをするのを聞いた。
「僕と、最後に腕相撲してくれませんか?」
顔を真っ赤にしているだろう。
ハアハアと息づかいが聞こえる。
真正面にはキョトンとした真由美ちゃんがいた。
突然の大声とその言葉の内容に、驚きを隠しきれない様子だった。
それでも、彼女はすぐに、いつも男子を虐めるときのニヤニヤといじわるそうな笑顔になって僕のことを見つめてきた。
「いいよ♪ しよっか」
僕は感極まってしまった。
僕の尻にシッポがついていたら、左右にちぎれんばかりに振られていただろう。
僕と真由美ちゃんは、イスに座って、机にヒジをつきながら手を組んだ。
その暖かさと大きさ。
そして、練習着姿のアスリートとしての真由美ちゃんの存在感に僕は圧倒されてしまった。ぽわーんと頭が幸福でしびれる中、真由美ちゃんが言った。
「レディー、ゴー!」
「ふんぐうううう!」
全力で力をこめる。
全身全霊をかけて真由美ちゃんの腕を倒そうとする。
歯を食いしばって、顔を真っ赤にして、男の意地をかけて真由美ちゃんを倒そうとする。
「ふふっ」
真由美ちゃんの笑い声が響いた。
僕の全力は、彼女の腕を1ミリメートルだって動かすことができなかった。
まったく微動だにしていない。
まるで大きな岩を前にしているのような、そんな錯覚に陥った。
「よわっ♪」
ズドオオオンン!
「ひいいいいい」
一瞬、真由美ちゃんの腕に力がこもり、僕はあっという間に体ごと逆方向にもっていかれ、机に手を叩きつけられた。
その勢いで、僕の体はイスから落ち、地面に転がりこんでしまう。
仰向けに倒れた僕のことを、はるか頭上の真由美ちゃんが見下ろしていた。
「ちょっと、大丈夫?」
そう言って、彼女は手を差し伸べてくれた。
僕はイスに座って強調された彼女の脚の魅力にどぎまぎしながら彼女の手を握り、また立ち上がった。
「ふふっ、秒殺だったね」
真正面の真由美ちゃんが勝ち誇って続けた。
「卒業前に私にリベンジと思ったんだろうけど、ぜんぜん相手にならなかったね。わたし、半分も力出してないよ?」
いたぶってくる。
僕はそんな彼女のことを、下をむくこともせず、真正面から見つめ返していた。
「ま、でもリベンジしようって思うだけでも立派なもんだよ。今じゃもう他の男子なんて、私見ただけで逃げ出すくらいだからね。立派立派」
そこで彼女はイタズラを思いついたように、ニンマリと笑った。
「でも、君は弱すぎだね」
いいながら、真由美ちゃんはがばっと僕の両手をつかんだ。
戸惑っている僕のことを尻目に、彼女はそのまま勢いよく立ち上がって、僕の両手を持ち上げた。
身長差。
真由美ちゃんのほうが格段に背が高かったので、僕は両手を頭上まであげられ、さらにはつま先立ちになるしかなかった。
僕はいやいやをするように、彼女から逃れようとした。
しかしビクともしない。
そんな滑稽な抵抗を試みる僕を見下ろして、真由美ちゃんが笑っていた。
「ほら、ぜんぜん力弱いもんね。そんなんじゃ、いつまでたっても私に勝てないよ」
さらに、彼女は片手だけで僕の両手を握りしめると、ぐいっとひっぱって僕の体を持ち上げてしまった。
つま先が地面に立たず、僕の体は宙づりにされてしまう。バタバタと脚をばたつかせて暴れる。
真由美ちゃんは片手だけで僕のことを宙づりにして、余裕そうな様子だった。
目の前の彼女が、ふふっと笑う。
真由美ちゃんはイタズラを思いついたような表情を浮かべ、はあまったもう一方の手で、僕の頬をぎゅうっとつかんで潰した。
ひょっとこみたいな情けない顔になった僕のことを見下ろしながら彼女は言った。
「もっと強くならなくちゃ。私も楽しくないしさ。次やるときは、もう少し勝負らしい勝負になるようにしておいてよね」
言い終わって、彼女が手を放した。
どさっと地面に倒れ込む。
仰向けになって、頭上の真由美ちゃんを仰ぎ見る。
そこには、手を腰にやって、こちらを見下ろしてくる彼女の姿があった。
圧倒的な勝者としての貫禄をもって、僕のことを見下ろしてくる真由美ちゃん。
僕はその姿をいつまでも忘れることはなかった。
その時の真由美ちゃんの姿だけで、これからの人生を生きている、そんな気がした。
(続く)