小学校を卒業してからのことで特に語ることはない。

 灰色のクソみたいなクソだった。あえて言うのであればそれだけで済んでしまうだろう。

 当然、卒業後に真由美ちゃんに会うことはできなかった。

 遠方の学校に入学した彼女の噂は、僕の耳にはまったく届かなかった。

 クラスでも暗く目立たなかった僕と、太陽のように輝いていた真由美ちゃんとでは、最初から接点なんてなかったのだから仕方がない。

 僕は灰色のクソみたいなクソの毎日を、真由美ちゃんとのやりとりを思い出すことだけを生き甲斐に、やり過ごしていった。


 *


 大学に入学して3年になった。

 特に勉学にいそしむ気力も能力もなかった僕は、俗に言うFランクの仕様もない大学へ惰性のまま進学して、惰性のまま生きていた。

 無気力が服を着て歩いているような有様で、サークル活動なんてものはするはずもなく、友人もおらず、一人で講義を受け、図書館で本を読む毎日だった。

 そんな僕でも最低限の人付き合いをしなければならず、その一つがゼミ活動だった。

 特になんの感慨もなく入学したのは文学部だったのだが、この大学は3年次にはゼミに入るきまりで、ここで卒業論文を書かなければ卒業することはできないルールだった。

 僕は特に興味もない作家の研究をすることを教授に命じられて、それを惰性で続けていた。

 このゼミでは週に一度、ゼミ生で集まって、割り振られたテーマについての発表をすることになっていた。

 そんなある日のゼミのこと。

 普段、あいさつ程度の話ししかしない男から、合コンの誘いを受けたのだった。


「なんで僕が?」


 どだい合コンなんてものに縁のなかった僕が言った。

 まさしく合コン活動に命をかけているであろう外見の男は、へらへら笑いながら言った。


「いやさ、急にドタキャンで人数集まらなくなっちゃってさ。探したんだけど皆ダメで、このままじゃマズくてさ。なんとかならないか」

「僕、合コンなんてしたことないし、うまく場のノリにあわすとかできないよ」

「ままま、いてくれたらいいからさ。ずっと黙っててもOKOK。気楽にさ。それに、今回の相手はけっこうレベル高いよ。そこは保証するからさ」

「でも……」

「ここは助けると思って。な、頼むよ」


 両手を合わせられて頼まれてしまった。

 こうなると小心者の僕は人からの頼みを断ることなんてできない。

 僕は不安に思いながらも、人生で初、そしておそらく人生で最後の合コンに参加することになった。

 そこで僕は、思いもかけない再会を果たすことになる。


 *


 指定された飲み屋には開始時刻の10分前には到着した。

 通された部屋には、すでに一人の女性が座っていた。

 大きな女性だった。

 座っていても分かる高い身長と、何かスポーツをしていることは確実である恵まれた体格。だからといって無骨な男みたいな女ではなく、どこか繊細さのようなものを感じさせる印象があった。

 彼女が僕のほうを振り向く。

 そこで、僕は惚けたような顔になってしまった。


「ひ、広末さん?」


 そこには真由美ちゃんがいた。

 小学校卒業のときから、さらにその体格も美しさも増した彼女が座っていた。


「え、どこかで会いましたっけ?」


 真由美ちゃんが言う。

 僕は、まあそりゃあ真由美ちゃんが僕のことを覚えているわけがないよなと、すんなりと納得して、説明していった。


「ほら、小学校で、6年生のときに一緒のクラスだった……」

「……あっ! そうだそうだ! わー、久しぶりだね〜。こっちの大学入ったんだ」


 真由美ちゃんが僕のことを思い出してくれたのか、話しに合わせてくれたのかは分からない。

 そんなことは、もう、どうでもよかった。

 とにかく、真由美ちゃんとこうして再会できた。

 それだけで僕は幸福で満ち足りた気持ちになり、それ以外のことはどうでもよくなったのだ。


「どう、元気にしてた?」


 真由美ちゃんが言った。

 僕はなんと答えればいいのか、まごつきながら答えた。


「う、うん。そうだね。なんとか」

「でも、君がこういう合コンに参加するなんて意外だな。ぜんぜん似合わないよね」

「いや、今日は無理矢理誘われて……」

「ほんと? ま、どっちでもいいけどさ。それより」


 真由美ちゃんがそこで僕の顔をまじまじと凝視した。その顔には、小学校の頃の嗜虐的な笑みが浮かんでいた。


「少しは強くなったのかな?」

「え、」

「腕相撲、もう一回やってみようか」


 ドクンと心臓が脈打つ。

 自分がどんな表情を浮かべているのか分からない。

 ためらっているうちに、その最大のチャンスは僕の手からこぼれ落ちていってしまった。


「あ、もうきてたんだ」


 合コンの男性陣が現れる。

 そこで、僕と真由美ちゃんの会話は終わってしまった。

 続々と現れてくる合コン参加者。

 僕はその輪に入ることもできず、黙りこくって、空気になるしかなかった。

 僕は真由美ちゃんとの会話のチャンスを逃してしまったことに、忸怩たる思いを感じながら、せめて邪魔者にはならないようにと、薄ら笑いと相づちをうちながら、他の合コン参加者たちの会話を聞いていた。

 こんなにも人が大勢いる中で、真由美ちゃんに話しかける勇気が僕にあるはずがなかったのだ。

 僕に許されることは、笑い、お酒を飲み、食べ物を食べる真由美ちゃんの姿を盗み見ることだけだった。


「そういえばさあ、広末さんとこいつって、知り合いなの?」


 男性陣の一人が僕と真由美ちゃんを交互に指さしながら言った。

 え、どういうこと。という声があがる中で、そいつはさらに続けた。


「いやさ、俺が来たときには、もう広末さんたち来ててさ。親しげに話してるもんだから。だって、こいつが初対面の人と親しげに会話するなんて、そんなところ見たことがなかったからさ」


 俺たちに対しても親しげな態度見せないのになー、なんて、他の合コン参加者にむかって言う。

 僕は殺意を覚えた。


「うん。小学校のときにね、一度クラスが一緒だったんだよね」


 真由美ちゃんが言った。

 場が盛り上がる中で、お調子者の男がさらに続けた。


「え、え、小学校のときのこいつって、どんな奴だった? やっぱり、しかめっつらで無口な奴だった?」

「ん〜、正直、あんまり話したことないから覚えてないんだよね。私が覚えているのは、腕相撲がすごい弱かったことくらいかな」

「え、なによそれ。どういうこと?」


 他の女性陣まで話しにのってきて、真由美ちゃんが説明した。

 小学校のころ、僕と腕相撲をしたこと。

 その全てに真由美ちゃんが圧勝したこと。

 その場は爆笑の渦が生まれ、盛り上がった。僕は、楽しそうに話す真由美ちゃんから目を離すことができずに、ハハハと笑うだけだった。


「なあ、今はどっちが強いんかな」


 どこからともなくそんな声があがった。

 あ、興味あるーという女性陣の声。

 あっという間に僕と真由美ちゃんが腕相撲で対決することになってしまった。

 テーブルの上から、飲み物や食べ物がどかされる。

 僕と真由美ちゃんがその中央に席を移動して、それを他の合コン参加者が囲む格好だ。


「ふふっ、よろしくね」


 真正面の真由美ちゃんが言った。

 つぶらな瞳と、漆をぬったような光沢鮮やかな黒髪。

 肘をついて前傾姿勢になった瞬間、さらに強調されることになった、大きな谷間。

 その全てに僕は心を奪われながらも、この勝負に躊躇する自分がいた。

 それは自分としても予想外のことだった。

 小学校を卒業してから、何度も何度も、僕は真由美ちゃんとの腕相撲対決を思いだし、妄想して、オナニーまでしていた。

 その念願かなった対決になぜ躊躇するのか。

 おそらく、嫌だったのだろう。

 強くて、僕では絶対に勝てない、そんな真由美ちゃんの幻想が消えてしまうのが、嫌だったのだろう。

 真由美ちゃんが腕相撲で無敵だったのは、小学校のときのことだ。中学校にあがった後の彼女のことは知らない。

 それでも、人体の構造として、その筋肉量の違いからしても、女性が男性に勝つことはあり得ない。

 僕らはもう20歳を越えていて、大学生で、その間に僕だって男として成長しているのだ。いくら女性にしては身長が高く、体格がいいからといって、大人の僕が真由美ちゃんに負けるはずがない。

 そのことが、僕の中で自覚されていたのだろう。

 この腕相撲に僕が勝利してしまい、無敵の真由美ちゃんという幻想が消えてしまうのがイヤだったのだと思う。


「どうしたの、早く始めようよ」


 真由美ちゃんが肘をつきながら言った。

 こちらをほがらかな笑顔で見つめてくる彼女。

 僕は観念して彼女の手を握った。その瞬間、真由美ちゃんの片方の口元が、若干、上にあがった気がした。


「レディー、ゴー」


 全力。

 これで無敵の真由美ちゃんという幻想がなくなっても仕方ないと思いながら、全力で真由美ちゃんの腕をテーブルに叩きつけようとした。

 しかし、


(ビ、ビクともしない!)


 信じられなかった。

 僕の手はまるで大きな岩でも相手にしているかのように、まったく微動だにしなかった。

 僕は驚愕して、顔を真由美ちゃんを見つめた。

 そこには、獲物を追いつめて虐めてニンマリと笑う真由美ちゃんがいた。


「ひょっとして、それで全力?」

「う、くうううう」

「あはは、顔真っ赤にしちゃって。ほらほら、がんばりなよー。じゃないと……」


 そこで僕の腕があっという間にテーブル寸前まで倒されてしまう。

 その力には対抗すらできず、僕の手はテーブルギリギリのところまで強制的にもっていかれてしまった。


「ほらほら、負けちゃうよー。女の子に負けちゃって悔しくないんですかー」


 口調まで小学校のときと同じものになる。

 こちらをニンマリと見つめてくる真由美ちゃんに、混乱しながら、僕は必死になって腕をもどそうとする。

 しかし、やはり動かない。

 僕の手はテーブル寸前でぷるぷると震えるだけ。

 そんな滑稽な僕の様子を真由美ちゃんがマジマジと観察して笑みを浮かべているのが分かった。


「あ、けっこう強いかもー」


 おどけながら言って、真由美ちゃんが僕の手を強引に最初のスタート位置まで戻した。

 しかし、それすらも真由美ちゃんの嗜虐性の現れだったのだ。彼女は壮絶に笑うと、そのまま、


「なんてね♪」


 ズドオオン!


 勢いよく、今度は手加減抜きで、僕の腕をテーブルに叩きつけた。

 ひりひりとする僕の手の甲。

 勝利者と敗北者。

 そんな一線が引かれた中で、真由美ちゃんはなおも僕の手を握りしめながら言うのだった。


「ふふっ、弱いまんまだね」


 その言葉で僕は完全にノックアウトされてしまった。

 真由美ちゃんは強いままだった。

 強くて、男子を虐めて楽しむ、かつての彼女のままだった。


「うっわ、弱すぎだろおまえー」


 合コン男子陣がはやしたてる。

 僕のことを徹底的にこけ落として、自分たちの優位性をあげようという、そんな露骨な狙いが透けて見えた。

 彼らが次にやろうとすることも、簡単に予想がついた。


「次、俺とやろうよ、広末さん」

「おいおい、抜け駆けするなよ。俺と、俺と勝負しようよ。俺テニス部だからさ、負けないよ」

「いや、ちょっと待てよ、俺にもやらせてよ」


 口々にわめきたてる男性陣。

 そんな彼らを見て、真由美ちゃんは満面の笑みで言うのだった。


「うん、いいよ。みんな全員、かかってきなさい♪」


 こうして他の男性陣と真由美ちゃんの腕相撲対決が実現した。

 僕は中央の席を譲って、かたわらでその様子を見ていた。

 男性陣は、僕なんかと比べても体格がよく、運動系のサークルに所属している者もいる。

 しかし、僕の中には一抹の不安もなかった。腕相撲のときの彼女の強さからして、結果は見なくても分かった。


「弱いねー。まだ私、半分も力だしてないよ〜」

「アハハっ、瞬殺だったね。テニス部とかいってたけど、ちゃんと練習してる? わたしのほうが力こぶあるんじゃないの? ほらほら、比べっこしようよ」

「ぷぷっ、顔真っ赤にして、全力出したのに負けちゃいましたねー。ねえ、今どんな気分、悔しい?」


 圧倒的な真由美ちゃんがいた。

 余裕の表情で、次々と、男性陣を軽く調理していく真由美ちゃん。

 ズドオン、ズドンと、男たちの手がテーブルに叩きつけられる。男たちは信じられないような、泣きそうな顔になって、ニンマリ笑う真由美ちゃんを仰ぎ見るだけ。

 次第に、男たちは皆、うつむいて黙りこんでしまった。

 真由美ちゃんは男連中全てに勝利してしまったのだ。僕は胸のときめきを押さえられなかった。


「あーあ、口ほどにもなかったねー」


 真由美ちゃんが言った。

 その場はさきほどから、シーンと静まりかえっている男性陣と、キャッキャと笑う女性陣で二極化している。

 男たちはみなうなだれ、下を向き、真由美ちゃんのほうを見ないようにしていた。

 そんな負け犬たちを真由美ちゃんは容赦なく見下ろし、ニンマリと笑って言うのだった。


「ザコすぎ。弱いねー、君たち」

「……」

「情けないな〜。深山くんのこと散々バカにしてたのにねー」


 僕の名前が呼ばれて、僕はハっと驚いた。

 まさか、真由美ちゃんが僕の名前を覚えているとは思わなかったからだ。僕は、体中から何かとても強い力みたいなものがわいてくるのを感じた。


「ま、いいや。君たちみたいなザコとこれ以上話してても仕方ないから、今日はもう終わりにしようね」


 真由美ちゃんが立ち上がる。

 周囲の女性陣も、くすくす笑いながら荷物をまとめ始めた。男たちはなおも、下を向いたまま俯くだけだ。


「弱い君たちに奢られるつもりはないから安心してね。私が全部、おごってあげるよ」


 真由美ちゃんが立ち上がる。

 その大きな体。

 座っていたから強調されることはなかったが、彼女は小学校のころよりもさらに身長が高くなっていた。

 おそらく、ここにいる男性陣の中でも、彼女が一番背が高いだろう。その肉感と、威圧感に、ますます男性陣は縮みあがっていた。


「それじゃあね、負け犬くんたち♪」


 真由美ちゃんたちが退席する。

 くすくす笑いを浮かべる女の子たち。

 こちらをニンマリと見下ろす真由美ちゃんの視線が僕たちを侮蔑していた。

 それを僕たちは黙って見守るしかなかった。居酒屋の部屋には男たちだけが残された。


「…………」


 誰もなにも話さなかった。

 みんな下をむいてうつむいて、さきほどの屈辱をなんとか処理しようと必死のようだった。

 それはそうだろう。

 女の子に対して、力勝負で完膚なきまでに敗北したのだ。そのショックはあまりにも強く、男たちは黙ったままいつまでも俯いている。

 そんなショックを受ける男たちの中で、僕だけは別の焦燥感にかられていた。


(このままだと、もう二度と真由美ちゃんには会えない)


 せっかくの奇跡的の再会。

 真由美ちゃんの連絡先なんて知るはずもない。

 こんな偶然がもう一度あるわけがなく、このチャンスを逃せばもう二度と真由美ちゃんには会えないだろう。

 それでも自分の臆病な性格が、行動を起こすのを邪魔している。

 真由美ちゃんに話しかけても無視されるのではないか。

 バカにされて、失笑されるのがおちなのではないか。

 うまく彼女の前で話すことができるのだろうか。

 そんなことを考えては、断念し、やはり迷って、なにがなんだか分からなくなった。

 どれくらいの時間が経った後だろう。

 僕は明確な決意のないまま、気がついたら部屋を出て、真由美ちゃんの後を追っていた。

 彼女たちはすでに会計をすませ、さらにその先、路地を歩いていた。


「真由美ちゃん!」


 僕は大きな声で叫んだ。

 驚いたように彼女たちが一斉に振り返る。

 僕は、もごもごとよく分からないことを言ってから、一人でに言葉がでてきた。


「あの、連絡先、教えてもらえない、かな」


 キョトンとした顔。

 しかし、彼女は一瞬にして破顔した。

 それは、男たちを圧倒した嗜虐的な笑顔ではなく、ひまわりの花が咲いたみたいな健康的な笑顔だった。


「いいよ、ラインでいい?」

「う、うん。もちろん」

「じゃあ、ふるふるで」

「う、うん」


 僕はなれない操作に手間取りながら、真由美ちゃんと連絡先を交換した。

 自分ながら呆然としながら、ぼくのスマフォのラインに、真由美ちゃんの名前が出てくるのを見つめた。


「あ、あと、これ、男性陣の分、やっぱり払うよ」


 ぼくは財布から1万円札を何枚か取り出して言った。

 初めての合コンで、いくら必要なのかも分からなかったから、多めにATMでおろしておいて正解だった。


「え、別にいいよ。ほんとうに気にしないで」

「いや、でもさ。男のプライドとかそういうのじゃなくて、お金は大事だし」

「……」


 真由美ちゃんはじっくりとぼくのことを観察した後、仕方ないなーとばかりに。


「じゃ、深山くんのだけもらうよ。はい、おつり」


 僕から1万円札だけを受け取り、おつりまで渡してくる真由美ちゃん。僕がためらっていると、真由美ちゃんはさらに、


「それとさ、深山くんの下の名前忘れちゃったから、教えてくれない?」

「え、な、なんで?」

「真由美ちゃん、ってさっき君、私の名前呼んだじゃない」

「え、そうだっけ?」

「そうだよ。だからこっちも知っておかないといけないじゃん」


 よく分からないけど、断る理由もないので僕は言った。


「良助だよ。善良の良に助ける」

「そっか。じゃあ、良助」


 真由美ちゃんが僕の名前を呼び捨てにした瞬間、ドクンと心臓が脈打つのを感じた。


「またね♪」


 そう言うと、真由美ちゃんが去っていった。

 真由美ちゃんの周囲の女の子たちが、ニヤニヤしながら僕と真由美ちゃんのことを眺めてから、真由美ちゃんのあとを追っていく。

 その後ろ姿を僕は見えなくなるまで見つめていた。



(続く)