その日は今にも大粒の雨が降りそうな曇天だった。

 太陽の姿はどこにも見えなかった。

 厚く凶暴な雲が太陽の光を完全に遮り、宵闇のごとく暗い雰囲気があたりを支配していた。ゴゴゴゴというような地響きが聞こえてきそうな天候だった。今日は早く帰ったほうがいいかもしれない。そう思いながらも、僕はいつもの川で玖留美ちゃんを待っていた。


「待ってなよ。もう少しで来るからね」


 僕はいつものように鯉に話しかけていた。

 停滞した水たまりの中で、鯉は優雅に泳いでいた。

 本当に大きくなった。

 去年の秋に出会ったときには僕の体みたいにひょろひょろのガリガリだった鯉は、今では立派な体になっていた。

 鯉が泳いでいる水たまりが小さく見えるほどだ。鈍い色をした鱗が光ってさえ見える。

 鯉は僕が来た瞬間に近くに寄ってきて、今か今かとパンを待っている。その鯉は僕のことが分かっているのだ。信頼関係で結ばれている。そのことを再確認すると、僕は暖かい気持ちになった。けれど、それと同時にすごい不安が生まれてくるのも感じていた。

 不安。

 なぜそんな気持ちがわき起こってくるのだろうか。

 天候のせいかもしれない。

 外はますます暗く、嵐の前の暴力的な風の匂いを漂わせ始めた。どこかでピカっと光った稲妻が、地響きをたてている。今にも大量の雨が降ってきそうな雰囲気に対して、僕は不安に感じているのだろう。

 それしか不安に思うことはないはずだった。

 そのはずだ。

 きっとそうだ。

 僕は玖留美ちゃんに対して感じた不安を無視して、そんなことを思っていた。そんな僕の思考の怠慢は、すぐに罰となって僕のことを地獄にたたき落とすことになる。


 *


「待たせたわね」


 玖留美ちゃんの声がした。

 鯉を眺めるのをやめて声がしたほうを見上げると、そこには玖留美ちゃんがいた。

 すごい荷物をもっている。

 クーラーボックスを肩からかけてもっているのだが、それはかなり大きなクーラーだった。

 さらにその手には竿が握られていた。

 折りたたまれた状態の竿なのに、その状態でも長いことが分かる竿だった。すでにリールがつけられた状態。そのリールだってかなり大きなものだった。玖留美ちゃんの体にお似合いな釣り道具。それならばどんな大きな魚だって釣れるだろう。


「玖留美ちゃん、釣りするの?」


 僕はキョトンとしながら声をかけた。

 こんな悪天候一歩手前なのに、鯉にエサをやった後に釣りにでかけるのだろうか。僕はそんなことを考えていたのだ。

 人はどんなに決定的な瞬間が訪れても信じたくないものは信じないようになっている。

 だから僕はその時、その可能性のことは1ミリも考えていなかったはずだ。

 心の奥底に宿った不安に蓋をして僕は玖留美ちゃんの釣り道具を呆けて見つめるだけだった。


「うん、ちょっと釣っちゃおうと思って」


 玖留美ちゃんが言った。

 さわやかな笑顔だった。

 上機嫌で楽しそうな彼女が僕と鯉の近くまで来て立ち止まった。

 どすんと大きななクーラーボックスを地面に置く。

 アンカーが打ち込まれた。

 何か重いもので固定化されてしまったような奇妙な錯覚を覚えたことを今でも覚えている。


「玖留美ちゃん、釣りしたことあるんだ?」


 僕はなおもそんなことを言うだけだった。
 
 でも少しづつ心の中でさらに不安が育っていった。


「うん。パパの趣味で、なんどか連れて行ってもらったことがあるんだ。これもパパの道具だよ」

「そうなんだ。かなり大きな釣り竿だね」

「近所の川で魚を釣りたいってパパに言ったらコレ貸してくれたんだよね。どんな大物でも間違いないぞって言ってた」


 ドクンと心臓が脈打った。

 そんなことは信じたくなかった。

 けれども玖留美ちゃんはせっせと準備をし始めた。

 折りたたみ式の竿を伸ばす。リールから糸を出してガットに通していく。

 その準備はたどたどしいものだった。慣れていないことがすぐに分かった。それでも彼女は着実に準備を進めた。

 大きめの針がつけられた。

 それは固結びを何度も何度も続けて団子のようになった不器用な付け方だった。その鋭利な針先が目に飛び込んでくる。黒光りした鋭い針は、どんな獲物だって逃さないだろう。その凶器を目の前にして、僕の不安は頂点に達した。


「く、玖留美ちゃん」

「んー、なに?」

「パンは? 今日はパンはないの?」

「ああ。あるよ。ちゃんとエサは準備してある」

「は、ははっ。よかったよ。鯉もお腹すかしてるみたいだからさ、はやくあげようよ」


 僕はすがるように玖留美ちゃんを見上げた。

 彼女はそんな僕のことを無視してクーラーボックスをあけた。

 そこからひとかけらだけのパンを取り出した。

 小さなパンの切れ端だった。

 それしか入っていなかった。それは玖留美ちゃんが準備した針にちょうどよくおさまる大きさのパンだった。


「く、玖留美ちゃん」


 僕はガクガク震えながら言った。

 体が震えていた。

 寒くはない。熱いくらいだ。季節は夏だ。汗だってでている。それなのに僕の体は震えているのだった。自分の体が目の前の大きな体をした女の子にたいして心底恐怖しているのが分かった。


「ちょっと待って、今つけちゃうから」


 そう言って彼女はパンを手の中でぐりぐりと潰した。

 丸っこい形になるまで、玖留美ちゃんはその大きな手でパンをぐちょぐちょに潰して、準備は完了したみたいだった。

 玖留美ちゃんがパンを針につけた。

 それが決定的な瞬間だった。

 パンはそれしかない。

 エサとしてパンを使う。そんなものを食べる獲物はここに一匹しかいなかった。


「や、やめて」

 
 僕の口から弱々しい声が出た。

 それに玖留美ちゃんが反応した。

 すべての準備が終わった彼女が、僕の目の前まで歩いてきて、止まった。

 大きな体。

 体操着姿の残酷な少女。

 大きなおっぱいとムチムチの太もも。そんな豊満な体をもって玖留美ちゃんが僕のことを見下ろしてくる。その圧倒的な存在感の前に、僕の矮小な体はビクつくしかなかった。


「小太郎」


 玖留美ちゃんの声。

 楽しそうな声だった。

 そんな彼女の声に反応して見上げると、そこにはニンマリと嗜虐的に笑った玖留美ちゃんがいた。その壮絶な笑顔に僕は思わず「ひい」と悲鳴をもらした。


「ほら、これで釣るんだよ」


 玖留美ちゃんがパンをつけた針を見せつけてきた。

 あの黒光りした凶暴な針は今ではパンの中に身を隠して待機していた。獲物を虎視眈々とねらっている。そんなことが分かる外観だった。


「鯉ってけっこう難しいらしいんだけどね」


 玖留美ちゃんが言った。


「あんたが毎日パンをやってくれたおかげで、警戒心なんて何もないもんね」

「や、やめて」

「たぶん入れ食いだと思うよ。だって、毎日たべてるものだもん。警戒心なく食いつくでしょうね」

「お願い。玖留美ちゃん。お願いだから」

「ふふっ、じゃあするね」


 *


 玖留美ちゃんがさらに川に近づいた。

 僕はなんとか彼女の前に立ちはだかった。ずんずん歩いてくる玖留美ちゃんの体をおさえて彼女を止めようと思ったのだ。しかし、玖留美ちゃんの体にぶつかった僕はそのまま勢いよく地面に転がった。僕では玖留美ちゃんのことを止めることはできないのだ。


「ふふっ」


 玖留美ちゃんが勝ち誇って笑った。

 彼女が川の前で止まった。

 リールが起こされる。振りかぶった玖留美ちゃんが、そのままキャストした。針をつけられたパンが、放物線を描いて鯉の近くに落ちていく。


「だ、だめええええッ」


 僕は叫んでいた。

 立ち上がって、玖留美ちゃんの隣で鯉にむかって叫ぶ。

 それを食べてはいけないのだ。そのパンはこれまでのパンとは違うのだ。それを食べてしまったらすべてが終わってしまう。玖留美ちゃんに釣り上げられて、食べられてしまう。


「だ、だめだあああッ! 食べちゃダメだああッ!」


 必死に叫ぶ。

 こんなに大きな声を出したことなんて今までの人生で一度もなかった。全身全霊をもって鯉にむかって叫んだ。


「無駄だって」


 玖留美ちゃんの声。

 その言葉どおり、鯉はいつものように泳いできた。鈍い色が見える。嬉しそうにパンに迫っていく。そのままなんの警戒心もなく水面に浮かんだパンを食べた。


「フィッッシュ!」


 玖留美ちゃんが勢いよく竿をたてた。

 暴力的なまでの力強さをもって鯉の口に針をひっかける。竿がしなった。しなってしまった。弓なりになった竿がグングンと引っ張られている。


「あ、あああああ」


 水面。

 そこでは暴れている鯉がいた。なにがなんだか分かっていないのだろう。それでも鯉は暴れていた。水面でバシャバシャと体を暴れさせ針をはずそうとしている。川の中にもぐりこんで勢いよくひっぱり必死の抵抗をしていた。


「が、がんばれ鯉! 負けちゃだめだ」


 僕には応援することしかできなかった。

 去年よりも鯉は体が大きくなった。

 引っ張る力だって格段に増したはずだ。

 素人の玖留美ちゃんには技術なんてないはずだった。だったら、鯉が必死に抵抗すれば、きっと逃げられる。それだけが希望だった。

 鯉は必死に逃げた。バシャバシャと暴れ、玖留美ちゃんのもつ竿が折れ曲がるくらいに弓なりになっている。


「へー、なまいきに、けっこう引くわね」


 そんな必死の抵抗に玖留美ちゃんはあくまでも余裕そうだった。

 大の大人でも鯉の引きを受け止めるためにはけっこうな力を使うというのに、玖留美ちゃんは仁王立ちのまま体勢すら変えていなかった。

 しなる竿にかかっている力ではビクともせずに、その二の腕の筋肉だけでもって鯉の必死の抵抗を無力化してしまっていた。


「でも無駄だから」


 ぐぐぐっ。

 玖留美ちゃんの二の腕に力がこもった。

 筋肉の躍動は竿が伝わる。鯉がたまらずにこちらに近づいてくる。バシャバシャと暴れているのに少しづつ陸にむかって体が引き寄せられてくる。その絶望感。玖留美ちゃんを前にしたら、僕らの抵抗なんてまったくの無駄なのだ。


「ほ~ら、ぶっこ抜いちゃうわよ」


 ぐぐぐぐぐっ。

 さらに力がこめられて鯉の体が宙を舞った。

 曇天の空のもと、鈍い色をした魚が水面からぶち抜かれてその姿をさらけだし、そのまま玖留美ちゃんの足下に叩きつけられた。


「はい、釣り上げちゃった。簡単だったわね」


 玖留美ちゃんが言った。

 地面では鯉がビチビチと跳ねていた。

 その口には針がかかっている。鋭利な切っ先が見えるだけで痛かった。

 釣り上げられた魚は玖留美ちゃんの足下で必死に暴れていた。体全体を使って陸の上で何度も何度も飛び跳ねている。酸素を求めて。水に帰りたくて。僕らの鯉は命をかけて体を暴れさせていた。


「よしよし、ちょっと待ってなさい」


 玖留美ちゃんが鯉の口にかかっている針をはずした。

 そのまま彼女は右手の指を鯉の口につっこみ、ぐいっと持ち上げてしまった。

 玖留美ちゃんは鯉の口を掴んで宙づりにしてしまっていた。

 まるでブラックバスを釣り上げたときみたいに、鯉を持ち上げてしまう玖留美ちゃん。鈍い色をした鯉がビチビチと暴れているのに玖留美ちゃんは片手だけでそいつを持ち上げてしまっているのだった。それは大きな鯉に成長していたが玖留美ちゃんを前にしては小魚にしか見えなかった。


「さてと、帰ろうかな」


 玖留美ちゃんが言った。

 彼女は手際よくクーラーボックスに鯉を入れてふたをしてしまった。大きなクーラーボックスがガタゴトと暴れている。完全に捕らわれてしまったのに、鯉は今も必死に抵抗しているのだった。


「く、玖留美ちゃん」


 僕は呆然としながら言った。

 何がなんだか分かっていなかった。

 今、目の前で繰り広げられた光景が現実のものとは思えない。

 しかし、現に玖留美ちゃんは釣り道具をもっているし、クーラーボックスはガタゴトと揺れている。僕は帰り支度を進めている少女にむかって力なく問いかけることしかできなかった。


「ね、ねえ。その鯉、どうするの?」

「ん?」

「釣って、その鯉どうしちゃうの? つ、釣ることだけが目的ならもういいよね。こういうのって引きを楽しむものなんでしょ?」

「あー、そうかもね。パパも釣った魚逃がしてたし」

「だ、だったら早く川に返してあげようよ。クーラーボックスになんかいれたら可哀想だよ。はやく川に」


 そこで玖留美ちゃんが帰り支度を終わらせた。

 竿をたたんで、クーラーボックスを肩にかついで立ち上がってしまう。ビクンと震えた僕に近づいてきた玖留美ちゃんがニンマリと笑った。僕のことをはるか頭上から見下ろしてくる玖留美ちゃん。その瞳には嗜虐的な光しか浮かんでいなかった。その視線だけで鯉の末路を知ることができた。


「こいつは食べるの」


 玖留美ちゃんが事実を確認するように言った。


「家に帰ったらすぐに殺す。それで、専用の包丁でさばくの。この前、パパに教わったから簡単にできると思うよ」

「あ、ああああ」

「まず、エラの境目に包丁をつきたてて息の根をとめる。その後、血抜きをしてから、頭を切り落とす。骨がけっこう太いから力いるんだけどね、わたしだったらあっという間よ。ゴキンって音がして、包丁が鯉の骨を断ち切って、そのまま頭と胴体を切り離す。そうすると、たいぶお店て売ってるお魚さんみたいになるのよね」

「や、やだあああッ! やだあああッ!」

「そうだ。鱗とるのも忘れちゃダメよね。魚の体をすりつけるみたいにしてとっていくの。ふふっ、人間だったら皮膚を一枚一枚剥いでいく感じかしら。丁寧に鱗をぜんぶはぎとっちゃうの」

「ゆるしてええッ! 玖留美ちゃん、助けてえええッ!」

「それで内蔵も全部引き抜いて、それはゴミ箱に捨てる。淡水魚だから内蔵は食べないほうがいいんだってさ。もったいないけどゴミはゴミだもんね。その後は背骨に沿って包丁をあてて開いていくの。そうしたらもう完成だよ。あとは食べるだけ」


 ニンマリと笑っている。

 玖留美ちゃんが口角をあげて嗜虐的に笑っていた。


「あんたが毎日パンをあげていたおかげで、たいぶ太っていたからね。食べ応えがあると思うよ。体も大きくなっていたし、ぷりっぷりに丸々太っていたからね。お腹いっぱいになると思う」

「ど、ど、どうして? どうしてこんなひどいことするの? だ、だって、玖留美ちゃんだってあの鯉のこと気に入ってたんじゃ」

「別に? わたしはただ、パンをあげ続ければ大きくなって食べるとき好都合だなって思ってただけだよ? それなのに、あんたは変に勘違いしてわたしと一緒に鯉にパンをあげてたんだものね。そのせいで、警戒心もなく鯉が釣れてよかったわ」

「あ、ああああ」


 僕は絶望と罪悪感でいっぱいになった。

 僕のせいなのだ。

 鯉が釣り上げられてしまったのは僕の責任だった。僕がバカで考えなしだったから、鯉は玖留美ちゃんに釣り上げられ、これから食べられてしまうのだった。

 僕の目からはとめどなく涙があふれてきた。悲しみが全身を貫き、生きる希望みたいなものが体の外に漏れていくのが分かった。


「ふふっ、すごい顔ね」


 玖留美ちゃんが言った。

 彼女はそのまま僕の頭を両手で挟み込んだ。彼女の大きな手で僕の頭が包み込まれてしまうようだった。

 その手からは生臭い匂いがした。

 川の水と魚の匂いだ。塗れたその手が僕の髪の毛をぬらす。彼女の手はひんやりと冷たかった。そんな感触はすぐに玖留美ちゃんの嗜虐的な視線に上書きされてしまった。僕の涙と鼻水で汚れた顔をまじまじと凝視してくる彼女の視線は、僕の全存在を支配してくるようだった。


「じゃあ、最後のチャンスをあげるわ」


 玖留美ちゃんの言葉と僕の体が浮かぶのは同時だった。

 彼女は両手で僕の頭部を挟み込みながら、そのまま僕の体を持ち上げてしまったのだ。地面が足につかない。目線が玖留美ちゃんにあわせられて、真正面からまじまじと観察されてしまった。


「3分間、あんたが意識を保ち続けられたら許してあげる」


 玖留美ちゃんが言った。


「それができたら、鯉は川に戻してあげるし、あんたのことも解放してあげる。わかった?」

「く、玖留美ちゃん」

「それじゃあ、開始♪」


 *


 玖留美ちゃんは僕の疑問の言葉に答えるつもりはないようだった。

 彼女はいきなり僕の頭を潰しにかかった。

 玖留美ちゃんの大きな手が僕の頭部をさらに挟み込み、ぎりぎりと頭蓋骨を軋ませていく。


「ひ、っひっぎい」

 
 いきなりの激痛に僕の口から悲鳴が漏れた。

 足をバタつかせて、頭が潰されていく恐怖と痛みを逃がそうとする。なにがなんだか分からない。宙づりにされて玖留美ちゃんの両手で頭を挟まれ潰されていってしまっている。僕は目の前に迫った玖留美ちゃんの顔を恐怖と絶望の眼でもって見つめることしかできなかった。


「あんたは3分間気絶しないで耐えればいいのよ。簡単でしょ?」


 玖留美ちゃんがふふっと笑った。

 その瞳がすべてを物語っていた。

 万が一にも僕が生存する見込みなんてないと確信している表情。

 しかし、彼女の要求はたった3分間なのだ。その間、意識を保っていられれば、鯉は助かる。僕のせいで釣り上げられてしまった鯉は川に帰されて食べられてしまうこともない。

 これは最後のチャンスだった。


「約束だよ。ぜったいだからね」


 僕は必死に言った。

 全身全霊をかけた挑戦状だった。けれど、玖留美ちゃんにとってみれば、ペットが吠えているくらいにしか見えないのだろう。


「あ、まだ喋れるんだ」


 そんなことを言って玖留美ちゃんがさらに力をこめた。


「ひ、っひいあああッ」


 僕の口からは悲鳴しか出なくなった。

 激痛が頭だけではなく全身を支配するようだった。

 玖留美ちゃんの両手によって僕の頭が食べられてしまっている。彼女の大きな手が僕の側頭部にあてがわれて、そのままサンドイッチをつくっていた。

 ミシミシと頭蓋骨が軋んでいく音が響いていく。

 あまりの激痛に目の前が暗くなっていった。嗜虐的にこちらを見つめる玖留美ちゃんの顔までが暗闇に染まっていく。


「あはっ、あんたの足ばたばた暴れてるね」


 玖留美ちゃんの言葉どおりだった。

 僕の足はひたすらにパタパタと動いて暴れていた。頭を両手で挟み込まれて宙づりにされてしまっていると、できることといったらそれくらいだった。

 僕の両腕と両足は滑稽にもバタバタと暴れ回っていく。しかし、玖留美ちゃんとの体格差はいかんともしがたかった。

 僕が命をかけて暴れても、玖留美ちゃんにとっては抵抗にもなっていないのだ。

 そもそも、僕の短い両腕と両足ではいくら暴れても玖留美ちゃんの体に届かなかった。暴れても暴れても玖留美ちゃんの体に触れることもできない。宙づりにされて無力化されて、僕は釣り上げられた魚みたいに手足をバタバタさせることしかできなかった。


「そんなに必死に体を暴れさせて、あの鯉と同じね」


 玖留美ちゃんがニンマリ笑って言った。


「あの鯉も釣り上げられて必死に飛び跳ねてたもんね。ふふっ、あんたも鯉も、わたしの前では無意味に体を暴れさせることしかできないのよ」


 もっと力こめてあげる。

 ぎゅううううッ!

 さらに玖留美ちゃんの腕に力がこもった。その二の腕の筋肉が暴力的に隆起する。僕の二の腕の力こぶなんて豆玉みたいに思えるほどの巨大な筋肉が、女の子の柔らかそうな二の腕に生まれて、それが僕の頭を潰しにかかった。


「あ、ああああああッ!」


 真っ暗だった視界が赤く染まっていく。

 ミシミシという音に加わってベギバギという何かが決定的に損なわれていく音が響く。それが頭の中から聞こえてきて、僕は発狂しそうな激痛と恐怖に、ますます体を飛び跳ねさせて暴れた。


「ほ~ら、潰れていっちゃいますよ~」


 おどけたように玖留美ちゃんが言った。

 彼女の両手はますます僕の頭部を潰し、頭蓋骨を砕いていった。

 そんなすさまじい圧力をかけながらも、玖留美ちゃんは余裕たっぷりで僕の恐怖にゆがんだ顔をじっくりと観察している。間近に迫った玖留美ちゃんの瞳が僕のすべてを支配しようとしているようだった。

 僕の口から「ひいいいッ」と悲鳴がもれた。

 怖かった。

 本当に僕の頭は潰されていく。彼女がその気になれば僕の頭部はあっという間に潰れたすいかみたいにされてしまうのだろう。彼女の力を知っている僕にはそのことが現実味のある事実として分かった。

 それでも、諦めるわけにはいかなかった。

 ここで諦めたらすべては終わるのだ。

 諦めた瞬間、クーラーボックスの中で暴れている鯉が玖留美ちゃんの家に持ち帰られて、食べられてしまう。

 それだけはなんとしても避けなければならなかった。

 僕がパンをあげていたせいで鯉は釣り上げられてしまったのだ。僕は鯉を救わなければならなかった。ぜったいに、諦めるわけにはいかないのだ。


「ふうううううッ!」


 歯を食いしばって耐える。

 悲鳴をもらすまいと固く口を閉じて、目の前の玖留美ちゃんを睨みつけた。ぜったいに負けない。そんな覚悟をもって僕はニンマリと笑う玖留美ちゃんを見返した。


「へー、まだそんな目ができるんだ」


 玖留美ちゃんが言った。


「これだからあんたは虐めがいがあるのよね。この技をあのバカ教師にかけた時なんて10秒も保たず命乞いしてきたわよ。まあ、あまりにも情けないから、その後1時間宙づりにしたまま頭潰してやったけどね」


 ふふっと玖留美ちゃんが笑った。


「そんな情けない教師とは違ってあんたは40パーセントじゃ無理なのね。やっぱり、もっと力こめないとダメか」


 その言葉に僕の体は震えた。

 覚悟をきめたはずなのに恐怖でガクガクと歯が鳴った。まさかこれが本気ではないのか? そんなはずはない。だって、僕の頭蓋骨は今も軋んで潰れている。これ以上力がこめられて保つわけがなかった。


「ほい、50」


 ベギベギバギッ!


「ひいいっぎいいいいッ!」


 すごい音がした。

 それは僕の頭から鳴り響いている音だった。

 頭蓋骨が折れる音だ。

 人体の中でもっとも固い骨がまるでスポンジみたいに潰されていく。その音があまりにも激しくて耳元で解体の工事をやっているみたいだった。自分の体が壊れていく音の恐怖に僕は「ひいいっ」と悲鳴をもらしてしまった。


「60」


 ベギバギイイイッ!


 さらに力がこめられる。

 僕の体がビクンと痙攣して動かなくなった。あまりにも強烈な力を前にすると人間の体はいっさいの動きを止めてしまうのだった。それは、圧倒的な強者を前にして身がすくんでしまうのと同じだった。


(ゆるして。食べないで)


 僕は時折体を痙攣させながら瞳から涙をぽろぽろと流し始めた。

 ベギバギと自分の頭蓋骨が潰れていく音を聞きながら、絶対的強者である玖留美ちゃんの慈悲にすがるために涙を流す。

 哀れを誘うように。

 同情してもらえるように。

 僕は負け犬として涙を流した。それでも口からギブアップの言葉は出なかった。玖留美ちゃんが壮絶に笑った。


「墜ちろ」


 ベギバギベギイイイッ!

 目の前が真っ赤になった。

 玖留美ちゃんの笑顔も見えなくなる。頭蓋骨が一瞬にしてなくなって脳味噌が潰された。そんな感触を最後に僕の意識は失われた。


 *


 雨に濡れて目をさました。

 いつの間にか曇天の雲からは嵐のような雨が降ってきていた。

 その冷たさで目覚めた僕は、地面に仰向けで転がっている自分に気づいた。頭がまだついていた。玖留美ちゃんに潰されてなくなったわけではない。そんなことに心底安堵した僕は次の瞬間にハッと起きあがって周囲を見渡した。

 誰もいなかった。

 川岸には僕だけが残されていた。

 シーンと静まりかえった空間がそこにあるだけだった。

 雨音がやけにうるさく聞こえた。水面に墜ちる雨粒が機関銃のような音をたてている。


「あああ」


 玖留美ちゃんはいなくなっていた。

 クーラーボックスだってない。

 水面に鯉の魚影が現ることだってなかった。



「ああああっ」


 どれくらい時間がたったのか。

 自分はどれくらい気絶していたのか。

 そんなことを考えては取り返しのつかない現実を前に立ちつくしかない。

 言えることはただ一つ。

 僕は玖留美ちゃんから与えられた最後のチャンスに失敗したのだ。僕は負けてしまったのだった。そうなったら鯉はどうなるのか。そんなことは考えなくても分かった。


「あああああああ」


 雨が僕のことを責めるように降ってきた。

 雨と涙でぐしょぐしょになって膝から倒れ落ちる。四つん這いになって必死にその光景を頭から振り払おうとするのだが、どうにもならなかった。

 頭を切り落とされ、玖留美ちゃんに食べられていく鯉の映像がやけに鮮明に浮かんだ。


「ああああああああああああッッ!」




つづく