「小太郎、こっち来なさい」
その言葉に僕の体はビクンと痙攣した。
小太郎というのは僕の名前だ。それを呼んだのは玖留美ちゃんだった。つまり、そういうことだった。
放課後の掃除の時間。もう少しで逃れられると思っていたのに現実は甘くないらしい。
「な、なにかな玖留美ちゃん」
「力比べ、そういえば今日やってなかったわよね」
「そ、そうだね。うん、してなかったかな」
「それじゃあヤるわよ。手、出しなさい」
玖留美ちゃんが両手を前に出してきた。
僕は恐怖と不安でどうにかなってしまいそうになりながらも、その両手に自分の手をからませた。
「ふふっ、あいかわらず、あんたの手は小さいわね」
玖留美ちゃんが笑って言う。
その言葉のとおり、彼女と僕の手とでは大きさがまるで違っていた。大人と子供だってここまで差はないだろう。彼女の柔らかくも大きな手が、僕の矮小な手に絡みついて離れない。まるですっぽりと彼女の手に握られてしまっているような感覚に陥った。
「おまけに体も小さいわね。あんた、ちゃんとご飯食べてるの?」
ぐいっとこちらに覆い被さりながら玖留美ちゃんが言った。
僕は両手を真上にあげているのだが、身長差からそれでも玖留美ちゃんと手を握りあうことはできなかった。そのせいで、玖留美ちゃんは腰をまげて僕に覆い被さるようにしているのだった。僕の頭上には彼女の大きな体が山のように迫っていた。
「ほら、見なさい。わたしの太もも、あんたの胴体より太いわよ。わたしが本気で抱きしめたら全身バギバギに折れちゃうでしょうね」
「う、あああ」
「あんたが負けを認めたらすぐに捕食してあげる。わたしみたいな大きくて強い女の子に抱きしめられて丸飲みされるんだから、あんたにとってもご褒美のはずよね」
クラスの男子の中でも体の小さい僕が玖留美ちゃんに勝てるはずがない。それは僕自身が一番よく知っていた。
それでもどういうわけか、僕は玖留美ちゃんに負けを認めることだけはどうしても嫌だった。
これまでもずっと、毎日のように虐められても、その気持ちは変わらなかった。
負けを認めなければ毎日のように虐められる。
耐えることなんて不可能な折檻。そんな地獄から解放されるために、クラスの男子たちはすぐに負けを認めてしまった。
玖留美ちゃんだけではなく、ほかの女子に対しても敗北宣言をして、下僕になることを誓わされている。
昼休みに食べられていた江藤くんが真っ先に標的にされて下僕宣言をさせられた。
それから先はもう女子たちの玩具だ。ほかの男子たちも同じように、すぐにプライドを捨て女子たちの玩具になることを選んだのだ。
「あとはおまえだけだもんね。下僕宣言してないの」
玖留美ちゃんがニンマリとして言った。
彼女は僕の怯えた表情を見下ろしながら言葉を続けた。
「それじゃあ、開始♪」
*
ぎゅううっと玖留美ちゃんの手に力がこもる。
純粋な力比べ。
それぞれの両手に指を絡ませて、握力でもって相手の手首を破壊しようと試みる。本来なら相当な力の差がなければすぐに勝負はつかない力比べの方法だ。しかし、玖留美ちゃんを相手にすれば成人男性だってあっという間に負かされてしまう。
「いっぎいいいいッ!」
ひどい悲鳴がこだまする。
それは僕の口からでている悲鳴だった。両手に伝わってくる激痛から強制的に飛び出てきた断末魔だ。
僕の両手が腕と直角になるまで折り曲がってしまっている。手首関節の可動限界。人体の構造上、それ以上手首が反り返ってしまったら関節が壊れてもう二度と同じようには戻らなくなってしまう。
そんな恐怖と激痛に僕は早くも涙をぽたぽたと流して悲鳴をあげてしまっていた。
学校中に聞こえているのではないかというほどの大きな声。クラス中の男子が恐怖に震えてガクガク震えているのが分かった。
「あはっ、よわ~い」
玖留美ちゃんが楽しそうに笑いながら言った。
彼女はまったくの余裕だった。
力をこめているようにも見えない。玖留美ちゃんはニンマリとした笑顔で僕の体に覆い被さり、僕の両手を握っているだけのように見える。
しかし、僕の両手に伝わってくる力は尋常ではないものだった。僕の必死の抵抗なんてまるで相手にもなっていない。徹底抗戦をしている僕の手首をあっという間になぎ払って、あとは僕の手首を壊しにかかるだけだった。
「ほ~ら、あんたの手首、もう少しで壊れるわね」
玖留美ちゃんの言葉のとおり、僕の手首はもう限界まで反り返っていた。
あと少し力がこめられただけで、僕の手首の関節は壊れ、元通りにはならなくなってしまうだろう。手首の神経が直接ノコビリか何かでギコギコと切られるような激痛がさきほどから僕のことを支配している。悲鳴がひっきりなしにあがり、僕は怯えきった目で頭上の玖留美ちゃんを見上げるしかない。
それでも、僕は敗北宣言をしなかった。
その言葉だけはどうしたって僕の口からでることはなかった。言ってしまえば解放されるのに。それでも僕の口から負けを認めて、玖留美ちゃんに忠誠を誓う言葉は出てこなかった。
「ほんとにあんたは強情ね」
玖留美ちゃんが呆れたように言った。
「ふつう、ここまでやれば誰でも命乞い始めるのにな。どんなに生意気なやつでも、あっという間に負けを認めて「ごめんなさい」ってしてくるのに。今日もあんたは負けを認めないわけね」
そんな言葉の最中も、彼女の大きな手が僕の小さな手を圧倒していく。
僕は玖留美ちゃんの顔を見上げながら、少しでも手首の可動範囲を確保しようと必死に力をこめるしかなかった。
「ふう、もういいわ」
激痛で視界が暗くなっていく中で、玖留美ちゃんがため息をつくのを聞いた。
瞬間、彼女が僕の手を離した。玖留美ちゃんに支えられるような格好になっていた僕は、そのまま教室の床に倒れ込む形になった。手首をさすって、涙でぐしょぐしょになった顔で玖留美ちゃんを見上げる。
「・・・・・・・・・・・」
そこには真顔でこちらを見下ろす女の子がいた。
玖留美ちゃんが、圧倒的な高身長から僕のことを真顔で見下ろしている。
半袖半ズボンの体操着姿。
僕の目の前に迫った健康的な脚と、大きな胸が、まるで僕のことを威圧するように迫っていた。
それよりも何よりも玖留美ちゃんの冷たい瞳が耐えられなかった。おそらく江藤くんたちなら、こんなふうに玖留美ちゃんに見下ろされただけで心が折れ、何も悪くないのに謝罪をして、彼女に命令されればすぐに土下座してしまうだろう。
「今日はこれくらいにしておいてあげる。もちろん、明日もやるからね」
覚悟しておけよ。
そう言い残して玖留美ちゃんは去っていった。
教室には痛みにしくしくと泣き続ける僕と、そんな僕のことを遠目に見てくる男子だけが残された。
つづく