月日が流れた。
初夏は本格的な夏となって、灼熱の太陽で汗がだらだらと流れるようになった。エアコンの部屋が恋しい。もともと僕はインドア派なのだ。こんなにも暑い日には、外出なんてしないでずっと家の部屋の中に引きこもっていたい。
しかし、その年の夏は外でやることがあった。
玖留美ちゃんと一緒に、鯉にエサをやらなければならなかったのだ。
「小太郎、こっち」
「う、うん」
その日も僕と玖留美ちゃんは鯉にエサをやっていた。
玖留美ちゃんがもってきてくれたパンを千切って川に落とす。そうすると鯉がうれしそうに跳ねて警戒心もなくパンを丸飲みしていった。鈍い色をした一人ぼっちの鯉は、もはや僕らのことを仲間だと思っているとしか思えなかった。
「小太郎、はやく飲み込みなさい」
鯉を見ていた僕のことを玖留美ちゃんが叱責する。
僕はもぐもぐと食べてゴクンと飲み込んだ。
「ほら、口あけて」
「うん」
口をあける。
そうすると玖留美ちゃんが手を伸ばしてきて、僕の口にプロテインバーを押し込んでくる。玖留美ちゃんは念入りにそれをやるので、彼女の指が僕の唇や口の中に触れるほどだった。僕はドギマギしながら、玖留美ちゃんから与えられる食物を口に含み、いっしょうけんめいに噛み砕いていった。
給食の時間もそうだが、玖留美ちゃんは飽きもせずに、僕に食べ物を食べさせるようになっていた。
鯉へのエサやりの時もそれは変わらなかった。
玖留美ちゃんが準備する僕のエサは最初パンだったのだが、それがいつの間にかプロテインバーに変わっていた。「たんぱく質をとらないと大きくなれない」そんなことを言って、玖留美ちゃんは僕にさまざまなたんぱく質を食べさせていった。
飽きもせず、今日も玖留美ちゃんは、鯉にパンをやりながら、僕の口にプロテインバーを放り込み続けていた。
「しかし、こんだけ食べさせても、小太郎は大きくならないわね」
玖留美ちゃんが呆れたように言った。
「いつまでたっても、ちっこいままじゃない」
「し、仕方ないよ。そんなに簡単に人間は大きくならないんだよ」
「でも、あの鯉はでっかくなったわよ。ほら」
そう言って玖留美ちゃんが鯉を指さした。
その言葉のとおり、停滞した川の中をゆらゆらと泳いでいる鯉はとても大きくなっていた。去年の秋、僕がその鯉と出会ったときには小さな魚でしかなかったのに、今ではどっしりとした重量感みたいなものを感じさせるまでになっていた。
毎日毎日、パンを与え続けた結果だった。あまりにも体が大きくなってしまって、川の本流からはずれた水たまりみたいなそこは、その鯉には小さくなってしまっていた。
「あ、あれは魚だもん。食べれば食べるだけ大きくなるよ」
「小太郎も食べれば食べるだけ大きくなりなさい」
「だから無理だって。人間はそんなふうにできてないんだよ」
「わたしは食べれば食べるだけ大きくなるわよ」
そんなことを言って張り合ってくる玖留美ちゃんだった。
でも、玖留美ちゃんが言うとなぜかしっくりとくる。成長しきったように見える玖留美ちゃんの体はますます大きくなっていた。
身長も伸びたし、胸もさらに大きくなった。まるで、僕が食べた分も玖留美ちゃんに吸収されてしまっているかのようだった。吸収。そんなことを考えると僕は何故かますます玖留美ちゃんに惹かれる思いを育てることになってしまった。
「でもさ」
玖留美ちゃんが鯉をじっと眺めながら言った。
「あの鯉って大丈夫なのかな」
「どういうこと?」
「台風がくるでしょ。もうそろそろ」
静かな言葉だった。僕は彼女が言おうとしていることが分かってハっとした。
「小太郎が鯉にあったのっていつだっけ?」
「・・・・・去年の秋」
「じゃ、台風きても大丈夫かはわからないんだ」
「そ、そうだけど。でも、この川が氾濫したなんて、今までなかったし」
「氾濫はしないかもしれないけど、こんな水深の浅いところにいて大丈夫なのかな」
淡々と言う玖留美ちゃんだった。
けれど彼女が鯉のことを心配していることは伝わってきた。僕は確かなことを言うこともできず、黙りこくるしかなかった。
「それより、ほら、口あけなさい」
「も、もう食べれないよ」
「だ~め。もっと食べて大きくなりなさい。この鯉みたいに大きくならないと。家かえってもご飯残しちゃダメだからね」
「う、うん」
僕は口をあけて玖留美ちゃんから与えられるプロテインバーをひたすら食べていった。
なんとかすべてを食べ終わると、彼女はいつものように僕の頭を撫で始めた。「よくがんばったね」「この調子で大きくなろうね」そんなことを言われながら彼女の大きな手で撫でられると、僕は本当に幸せな気分になって、脳味噌がとろけてしまうような気がした。
*
給食の時間と放課後の川で、僕はひたすらに玖留美ちゃんに食べ物を食べさせられていった。
毎日毎日。
夏で食欲がなくなっても、玖留美ちゃんは容赦なく僕に食べ物を与え続けた。例年なら僕は夏になるとますます小食になるのだが、彼女からの命令であれば従うしかなかった。
給食の時間と放課後の川だけではなく、朝ご飯も夕ご飯もちゃんと食べた。
家でもちゃんと食べていることを玖留美ちゃんに報告する必要があったのだ。
彼女はすべてを取り仕切らないと満足しないらしく、食べる前と食べた後のご飯の様子を写真にとって玖留美ちゃんに送る必要があった。僕と彼女のライントーク画面には、ひたすらご飯を撮影した写真が占められることになった。彼女も彼女で、なぜかその日の朝ご飯と夕ご飯を写真で送ってくるので、ますます訳が分からない画面になっていた。
玖留美ちゃんは家でもたくさん食べるみたいで、僕が送るご飯の量の2倍3倍の大量の食物が机の上にのっていた。それが空っぽになっている写真は圧巻の一言だった。彼女の食欲はすべてを平らげてしまうように見えた。
そんな写真を送りあっているうちに、いつの間にか僕は、玖留美ちゃんに食べられちゃう妄想をするようになっていた。
彼女のすさまじい食欲の対象が自分にむけられてしまう。
そうなれば僕なんてあっという間に殺されて、彼女にパクパク食べられてしまうのだ。あの大きな口が僕の小さな体にかみつき捕食する。あの大きなおっぱいが僕の体を吸収してそのまま食べてしまう。あの屈強な大蛇みたいな太ももが僕に巻き付きそのまま丸飲みしてしまう。
そんな訳の分からない妄想をしては、すごく興奮している自分を発見するのだった。
ダメだと分かっていながら、精通前のオナニーをしてしまう。サディスティックに笑う玖留美ちゃんが大きな口をあけて「いただきま~す」と言う。その光景が妙にリアルに想像できて、僕はビクンビクンと震えてめちゃくちゃに興奮した。
*
その日も玖留美ちゃんと一緒に鯉にエサをやっていた。
休日の日曜日。
両親に嘘をついて口実をつくり外出をすることも難しくなってきた頃だった。ちょっと家の外に出るのにも両親から理由を確認されるのだ。そして、両親が必要ないと判断した理由ならば外出は許されなかった。
忘れ物をした。
図書館に本を返さないといけない。
友達に本を借りにいく必要がある。
週末になるごとに苦しい言い訳をしては外に出た。その日も「友達に返さないといけないものがある」と言い残して川に来ていた。
「今日、塾はないんだね」
「まあね。というか、塾自体はあるんだけどサボってる」
パンをやり終えた後も僕と玖留美ちゃんは川岸に残って話し込んでいた。
川べりに二人で座って、パンを食べ終わってゆったり泳ぎ始めた鯉を眺めながらの会話だ。
「サボるって、いいの?」
「いいのいいの。日曜日まで塾に行ってたら頭おかしくなるわよ」
「でも、親とか怒らない?」
「まあ、怖いのはママだけど、バレなければなんでもないわよ」
本当になんとも思っていない様子だった。
そんな肝っ玉の太い玖留美ちゃんのことが眩しく見えた。
「でも、小太郎は塾行かないんだね」
「え、あ、うん。そうだね。両親が教師だからさ。塾なんて下に見てるんだよね」
「へー。でも、塾行かないでクラス1番なんてすごいわよね。委員長より頭いいってことでしょ?」
「いや、テストの点数をとれるってだけで、頭がいいってわけじゃないよ」
僕は謙遜でなくそう言った。
そんな僕の頭を玖留美ちゃんが「小太郎のくせにナマイキ」と言いながらグリグリと撫でてくる。
「でも、玖留美ちゃんも親に塾行かされてるんだね」
「ママに命令されたパパに懇願される形でね。5年生のとき赤点ばっかりとって、ママが怒っちゃったのよね~」
「玖留美ちゃんのお母さん、怖いんだ」
この玖留美ちゃんが言うことを聞くんだからよっぽどなのだろう。
僕は彼女の母親を想像してしまう。玖留美ちゃんが大人っぽくなったような大人の女性。そんな妄想は頬を強く引っ張られて霧散した。
「い、痛い」
「ママに興味もつのはやめなさい。食べられちゃうわよ」
「た、食べられるって、なにそれ」
「そのままの意味。パパだけじゃなくて近所の男連中はみんなママの下僕よ。ほんっとに近づいちゃダメだからね」
まじまじと僕のことを見つめる玖留美ちゃんだった。その瞳は真剣そのもので、冗談ではないことがわかった。
「いい? ママに近づかないこと。わかった?」
「う、うん。わかったよ」
うなずくしかなかった。
それきり玖留美ちゃんは黙って川を眺め始めた。
夕闇が濃くなっていき、水面も暗闇に染まっていく。鯉の姿も闇の中に消えていくようで、ときおりチャポンと泳いでいる音が聞こえてくるだけになった。
玖留美ちゃんは鯉のほうをじっと眺めていた。それは真剣な表情だった。僕はそんな彼女の横顔をドキドキしながら盗み見ることしかできなかった。
「大きくなったわよね」
いきなりの言葉。
僕は慌てた。
「え、なにが?」
「鯉よ鯉。ほんとうに大きくなったわよね」
「あ、ああ。そうだね」
玖留美ちゃんはそのままじっと鯉を見つめていた。
その横顔が神秘的に笑うのを見た。
遠足を楽しみにする子供のような笑顔だった。その笑顔を見た僕の心に、なぜか不安が芽生えた。
「ころあいかな」
ポツンと言う玖留美ちゃん。
彼女はそのまま、
「じゃ、塾も終わる頃だし、わたし帰るね」
「う、うん」
「またあした」
玖留美ちゃんが去っていく。
僕は彼女の後ろ姿がなくなるまで玖留美ちゃんの背中を眺め続けた。
玖留美ちゃんの笑顔が頭から離れなかった。
なぜか胸騒ぎがした。楽しそうな純粋無垢といった笑顔を見て、なぜ不安に思うのか自分でも全く分からなかった。
ポチャンと鯉が飛び跳ねる音が聞こえた。
つづく